ハルジオン     田代深子

 

四十女がフローリングで 化粧をあらう夢をみる あらわなければとおもいながら あらいながら 誰かに いや何かに いや誰も何もせずにあらいながれればいいとおもいながら

提示された書式が気に入らず まず嗚呼とため息をひとに聞かせ時間をかけ作り直す女 でも と必ず言う女 シャンプーの詰め替えをするときいつも手を濡らして滑らせ苛々する女 人前で麺を食べるのが嫌いな女

フローリングに自重で押しつけられた腕を痛いとわかっている 剥身の二の腕にバッグの金具が赤黒く痕をつけているはずで わずかに体を反せば考えもせず化粧をながしに洗面台へ歩けると 知っている

ドアの外を硬い踵の音がすぎて それは少しだけ遅く帰ってきた十一月だか八月だかの自分であって たぶんあの青い花のスカートをはき 黒いニットのノースリーブに麻のジャケットを羽織り 靴はあれで バッグはこれで ピアスは小さなサファイアで

彼女もまた鍵を閉めクッションに化粧染みをつくり眠ってしまう

そのような自分がつぎもつぎにも帰ってきて 窓灯りが横に各月の順じゅんに点り朝の光明に失せるまで放射しつづける 化粧をあらう夢の泡膜がフローリングのうえで放つ 照らすあてのない結果としての発光


化粧の粉と油が流れさると 弛く柔くなった皮膚に風はつめたく その風は 草はらがそのまま海にひたる校庭からの 校舎を結ぶとびとびの やはり海に半ばひたるコンクリートの 渡り廊下で 波と同じほど微弱に吹いている

コンクリ脇の波下でハルジオンの花弁と白いコンビニの袋が揺れ小蟹が陰を動いた

小蟹の黒影は一匹でなく 眼の慣れに伴い数が増えたが ほかの生き物は現れなかった ほかの生き物はいないのではないか と思ったからそうなのだとわかっている 四十年ほぼ毎夜夢をみてきて やっとそれを制御する

しゃがみこみ波下のおかっぱの細い花弁をさわがすハルジオンをしげしげと見続ける それはハルジオンに間違いなく

【ハルジオンとヒメジョオンの見分けかた】 ・ハルジオンは根元に葉が集まっている ・ハルジオンは蕾が垂れている(波の下で鈴のように揺れている) ・ハルジオンは茎を切ると中央部が空洞 ヒメジョオンはヒメジオンではない 漢字で「姫女苑」 ハルジオンは「春紫苑」

確認していく 思考にゆびを指し順じゅんに不確実性を消し込んでいく これはそれではない 手ずから分けていかなくてはならない その誤差のもとをあらいだすには 一つひとつを手あらいしていくしかない


背が痙攣し腕がはね墜ち海が消える そのまま起きあがる ニットを頭から抜きスカートを踏んで バスタブでタイマー保温された湯が新たにノズルから吹き出していて 微弱な波をつくっている

何もせず剥身ですべり降り波下まで潜り込む 眼を開けると 髪はハルジオンの花弁のように 化粧の粉と油は湯にとけて 濁りとなって その濁りとともに息の泡が 揺れのぼっていく
 


 
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