浮遊する集合的話者
――春日線香『十夜録』をめぐって  原口昇平

 

 知る人ぞ知るあの「空想製本屋」によって仕立てられた端正な藍色の布張りに、蔓を伸ばした葡萄が型押しされていて、その先についた実が二粒だけ赤と黒に色づけられている。
 生はただ跡としてのみ残され、代わりに熟した詩がもたらされている。

 この詩集は、私にひとつそんなふうに瑞々しい概念を着想させてくれた。
 その概念について語るためには、まずこの詩集に収められた詩のありかたについて説明しなければならない。
 春日線香の詩は一見わかりやすいかのようで実際のところ迷宮のようだ。この詩人は、一文ずつでは平易な言葉づかいを選んでいるのだが、しかし全体を通じて読むとよくわからない。
 そのありかたは何に起因するのか。

 例えば巻頭に掲げられた詩「ここに眠る」をみてみよう。
 五連。
 第一連と第二連は同じ冒頭二行から始まる。真夜中のできごとだ。「石のおもしをのせて眠る/石のおもしをのせた真夜中に」、第一連では「紫の腕がやってき」て、第二連では「緑の腕がやって」くる。どうやら前者は逃げ、後者は追っているらしい。実際「紫の腕」は「ぶるぶる震えて/『生きたい、生きたい』と泣いていた」ので、あわれに思った話者によって布団の中に入れられる。かたや「緑の腕」は「がらがら声で/『どこへやった』と聞いてきた」ので、恐れた話者によって嘘の行き先を教えられる。
 第三連は「呪文を唱えて雷を見送る」というただ一行によって成り立っている。この「雷」は電光そのものではなく災厄の隠喩だといえる。話者はきっとクワバラクワバラとつぶやいているのだろう。
 第四連は朝のできごとだ。布団の中に入れてやった「紫の腕」は「冷たくなってい」る。話者はそれを「庭木の根元に埋めて」やり、「石のおもしを置いてやった」。
 このあたりでどうも妙な気がしてくる。
 ここで置かれた「石のおもし」は明らかに墓の役割を負っている。しかしもともとその「石のおもし」を「のせて眠」っていたのは、第一連や第二連を見ると話者である。話者のうえに誰かが「石のおもし」を「のせ」たのだとすれば、それはきっとその誰かがかつて「冷たくなった」話者を葬るためだったのではないかと思われてくる。
 そうだとすると、タイトルの意味がまるで変わってくる。「ここに眠る」というごくありふれたフレーズは、ふつうは生きている者が死んだ者のうえに墓標として与える言葉だ。けれどもこの詩の場合では、話者が「冷たくなった」「紫の腕」に墓標としてその言葉を与えているのか、それとも自らの墓所についてそう申告しているのか、どちらなのか。
 そもそもこの話者は何者なのか。話者は一度も「私」と名乗っていない。埋められた「紫の腕」自身でないとは限らない。各連を通して同一の人物でないかもしれない。単数ですらないかもしれない。そのようにして自明性が揺らいでくるさなか、最終第五連が読み手の思考に決定的な一打を加える。「ずっと昔ここで/そんなことがあった」というのだ。「昔」とは、話者にとって、はっきりいつかわからないがとにかく遠い過去のことだ。その言葉は、確かな裏づけとなる記録はないが口伝だけで知られているような歴史=物語の開始部または終結部に使われる言葉だ。だからこの瞬間、直前までに語られてきたエピソードはすべて名前のわからない複数のひとびとによって受け継がれてきた言い伝えのレヴェルへ引きさらわれ、それを語ってきた話者は同一性の確証を失って、ねじれた物語空間が出現する。あたかも、無名のひとびとの亡霊の集合体が(誰かの口を借りて?)呆然と口々につぶやいているのを聞いていたのに、私はそれをひとりの発語と勘違いしていたかのようだ。

 このはっきりした自己同一性を持たない無名の亡霊の集合体は、春日線香の他の詩のなかにたびたび登場する。
 例えば詩「再会」をみてみよう。「百年前の水が流れて/あなたと呼ぶと/アナタトハダレノコトカシラ/はるかに響く/儚い交叉があり」……と始まる語りのうち、話者は冒頭一行で「百年前の水」と表現されるひたすらに懐かしい亡霊との邂逅を直観しているが、その名前すら思い出せないので第二行でただ「あなた」と呼びかける。注目すべきは第三行「アナタトハダレノコトカシラ」だ。これは、そうつぶやいた人物が自分自身に呼びかけられているとは確信しておらず、その人物の周りに他に呼びかけられた可能性のある人物が大勢いるということに他ならない。その大勢のうち誰がこう言ったのかも定かでないというのに、話者はその言葉を自らの語りのなかに引用するにあたって引用符(鉤括弧)を用いておらずただカタカナへ変えるのみだから、あたかも話者はその意識のない亡霊の集合体に憑かれつつ声色を転じるかのようだ。
 あるいはまた、詩「奥座敷」をのぞいてみてもよい。話者はなぜか「山奥につれてこられて」ひたすら「めしを湯飲みに詰める」作業をさせられていて、「襖のむこうから」やってくる「男」に「大勢待っているんだから と」その湯飲みをどんどん持っていかれてしまう。詩の終盤で、襖が突然開くと、「見れば暗い座敷に誰もいない/ただ百年も前からそこには/座布団が並んでいるだけだった」と話者は語る。こうして「男」はその亡霊の集合体のなかからやってきたひとりだろうと思われるのだが、しかし話者の存在も奇妙に歪んでくる。どうして話者は「ただ座布団が並んでいるだけ」の状態が続いているのが「百年も前から」だと知っているのか。話者とあの「男」の他に登場人物がいないからには、まるで話者はそのことをいま誰かに教えられて知ったのではなく百年もの間ずっと忘れていていま思い出したかのようだ。こうして話者自体もまたその亡霊たちの一部ではないかとしか考えられなくなってくる。
 
 ここまでにみたように、春日線香『十夜録』の語りは、特権をもたない無名のひとびとの亡霊の塊のなかからほとんど偶然に選び出されたひとりがその都度つぶやくことによって生み出されているかのようだ。話者において確固たる自他の区別や生死の境はなく、それゆえ同一性もどこか不安定である。話者はいわば集合的であるが、しかし一斉にしゃべるのではなく、区別しがたいひとびとがばらばらにつぶやくようなところがある。このありかたは一方ではわかりにくさにつながっているが、他方では内奥にあるこの詩人の創作の源泉を示してもいるだろう。詩集全体にちらばる民俗学的記号に惑わされるべきではない。重要なのはそのような記号がいわば浮遊する集合的話者の語りのなかに現れるということなのだ。

 


 
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