アンの図書準備室 ― 澁澤龍彦『犬狼都市』(1)   早坂恒



敬愛するステイシー先生へ

 アン・シャーリーです。えーっと、作文の授業の課題として、この文章を書いています。本日の制作内容は、『好きな本の感想を書く』というものでした。ひらたくいって、読書感想文です。
 あたしは本を読むのが好きだから、この課題は望むところ。でも、ルビー・ギリスなんかは、今ごろ家で頭をかかえて、うんうんうなってるんじゃないかしら。あの子はいつも男の子にかんするうわさ話しかしないのです。チャーリー・スローンの献身について、あたしが愛嬌よくふるまわなければならない、 なんてお説教もするし、ギルバート・ブライスの件についてなんか――いえ、こんな文章は、先生の指導目的に沿わないものであります。えへん。
 あたしが読んだ本のことを書きましょう。澁澤龍彦の『犬狼都市』という文庫本です。福武書店から出ていて、初版が一九八六年なので、かなり昔の小説です。最初に桃源社から発行されたのは一九六二年なので、もう五十年近くも前の作品集です。定価が三六〇円です。アマゾンでは、1円で買えるみたいですけど。
 『いぬおおかみとし』ではありませんよ。『けんろうとし』でもありません。『キュノポリス』と読みます。どういう由来があるのか、あたしは知りませんけど、愉快な響きだと思うわ。短編集で、「犬狼都市」「陽物神譚」「マドンナの真珠」の三つの作品がおさめられています。あたしはこのうちで、今回は、本の題名にもなっている「犬狼都市」について書こうと思います。みっつとも大好きな短編ですけれど、すべてについて書いていると、マリラがろうそくを消しに来る時間にまにあわなそうなのです。今夜は雨で月も出ていないし、真っ暗な中でペンを走らせるのは、あたしをもってかなり難事業といわなければなりません。それに寝る前にお祈りをする時間もとっておかなくてはならないのです。あたしはここにきた当初、自分自身と神様のために、自分自身でつくった、 創作のお祈りをしたのです。もちろん、マリラはあきれてしまって、"きちんとしたお祈り"を教えてくれました。けれど、自分自身のお祈りの方が、わかりやすいし、きっと神様にもおもしろく聞いていただけると思うけどな。詩とはいえないけど、詩と同じような響きがあると、自分では思うのです。こんなふうなの。"恵み深き天の父よ、歓喜の白路や、輝く湖水やボニーや雪の女王に感謝いたします。まったく心底から感謝しています。お礼を言うことはいまのことろ、 それだけです――"
 えーっと、あたしはこの作文の制作目的を、忘れないようにしなければなりません。先生がそばについていてくれれば、一秒だって忘れないんだけど。これはあたしの悪い癖なんです。マリラにもですけれど、よく、レイチェル・リンドの小母さんにも注意をうながされます。先の日曜日なんか、お茶をお出ししたときに――  「犬狼都市」です。先生はこの課題を出されるときに、小説を読むときには、「主題」を考えると、見通しがよくなる場合がある、とおっしゃいました。あたしもそう思います。それでこの作品について主題を考えると――それをただひとつの単語であらわすとしたら――「獣姦」となると思います。
 先生、えーと、ほんとなんです。少なくとも、あたしはそう思ったんです。貴婦人にはふさわしくない言葉だ、って自分でも思うけど、思っちゃったんだからしかたないわ。あたしは貴婦人になりたいけど、学者になるのも悪くないな、って思っているんです。学者なら、自分の感じたこと、考えたことについて嘘はつけません。それが良心ってものじゃない? それがええと、道徳的に正当なものであると、あたしは信じます――だから、これは正当な言葉遣いです。――ええと、この調子だと、ろうそくが消えてしまう時間までまにあわないし、書きたいことを書けなくて、口惜しくって夜に眠れなくなってしまいそうです。
 さて、それで、「犬狼都市(キュノポリス)」の女主人公である麗子さんも、夜に眠れないことがあるみたいです。麗子さんは十八歳です。お金持ちのお嬢様で(うらやましい、いやな響き!)、狼を愛玩動物としていつも手元においています。(この狼が、先に書いた主題と関係してきます)。麗子さんの 父親は世界的な魚類学者で、パイプとお髭の似合いそうな、知的で落ち着いた男性です。ちょっと、磨いてないダイヤモンド、って感じですけど。
 麗子さんは活発な女性で、父親の決めた婚約者がいるのに、そちらには目もくれず、狼と一緒に森を駆け巡るほうが好きです。狼の名は"ファキイル"といいます。これは"断食僧"という意味です。すばらしい毛並みと、大きな牙をもっています。麗子さんがファキイルを褒め称える箇所を引用します。

「でも何といったって、あたしのファキイルのほうがずっと素敵だわ。あんなに精悍な、兇暴な、それでいて気品のある顔、あんなによくうごく手足、あんなに形よくすらりと伸びた胴、あんなに細く引き締まった腰はどこにもありやしない……」

 そんな獣です。あたしは狼って、その、怖いと思います。昔話で、女の子を食べてしまうのは、"何といったって"、狼ですもの。でも、ファキイルは美しいのでしょう。精悍で兇暴なのは、あたしはどうかと思いますが、でも"よくうごく手足"というのは、とっても魅力的な語句だと感じます。
 初夏になると、麗子さんはファキイルと屋外に出て、ブラウスを脱いで仰向けに寝て、裸の乳房の上にファキイルを乗せます。稚い獣はじっと動かず、四肢をぶるぶる震わせ、尾の付け根からしきりに麝香液をしたたらせながら、女主人のなかば閉じた目のあたりに、焔のような熱い息を吐きかけるのです。
 麝香液って何でしょうか?
 狼にに口づける麗子さんははたからみてもおかしいと感じられます――とりわけ、獣の巨大な牙を、ソフトクリームのように舐め回すときなんかは。
 そして、麗子さんは夜に眠れないことがあるのですが――彼女が眠れないのは、つまり、その淫蕩さの所為です。あたしも眠れないときがありますが、それはときたま、昼間や夕方のうちに太陽の光がずずっとからだのうちに入り込んでしまうためで――麗子さんとはちがいます。あたしはよく寝床の中でごろごろころがりますが、麗子さんはまったく動かず、放心状態になってしまいます。
 先生、マリラが階段を登る音が聞こえます。雨の音にまじって、かつかつとした規則正しい靴音が聞こえます。明日も雨でしょう。でも、あたしは 雨の日も嫌いではありません。ダイアナと歩く小道は細く曲がりくねっていて、ほっそりした若い樺が白く、しなやかに、ずっと立ち並んでいます。しだや鈴蘭が茂っていて、そこに雨が降ると――


inserted by FC2 system