へその墨汁  早坂恒


 
男の心臓の真下からちょっと右寄りの肌にほくろがあって 
ほくろから毛がはえている 
油断をするとはえてきてはえっぱなしになるような毛 
だから女は「ああ私以外とは寝ていないんだな」と安心して 
それで自分の趣味では嫌な毛だけど このままにしておこうと思った 
男は眠っていて起きる気配がない 
眠りつづけていて 
死んでしまったんではないか 
と、ふたりで寝ていて夜中にひとりだけ起きてしまって 
それで真っ暗なときに 
女はときどき思う 
でも男はあったかくって、息をしているのもわかる 
だから「これは悪夢ではないんだ」と、女はそういうふうにのみこむ 

男のへそに手を滑らす 
湿っていた 
(寝汗だろうか) 
(寝汗だろう) 
男は汗っかきなたちで 
ふとしたときに「ちょっと臭いな」と思うときがある 
男は女の名前を忘れる 
ときがある 
一緒に警察に捕まったこと 
一緒に運動したこと 
一緒に雨の中、お地蔵様をさがしていなかの道をうろつきまわったこと 
雨の中で 
童子のころは童子のような声 
大人のときは大人のような声で 
昔からずっとわたしたちは 
おびえたり、たわいもないことで仰天したり 
ささやきあって頬をくっつけて、かわいらしくなったり 
でも夢のなか、夢のなかで、男が自分の名前をおぼえていないときがあって 
そうすると自分でも男の名前をわすれてしまう 
絵を見に行ったこと 他人の悪口で盛り上がったこと 
夜の内に閉じ込められて、明かりをつけたり消したりして 
でもどうしても孤独で取り残されたような気分になったこと 
朝になると白くて周りがはっきりと見えて、でも勘違いなんだって 
ふたりで そういうふうに思ってしまったこと 
夢のなかではそういうことも忘れてしまう 
だから女は男のへそに手を伸ばして 
指を突っ込む 
湿っていて、指が黒くなったような気がする 
男のへそがもっと汚くて、墨汁のように黒ければいい 
そうすれば指も黒くなって、なにかのしるしになるだろう 
それが夜の内に溶けこんでしまって 
指がなくなったように見えて、それで明かりをつけて 
男を起こして明るい部屋で でも置き去りにされたような気持ちで 
おぼえていないことを話すことができる



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